太平洋戦争末期の沖縄戦で犠牲になったひめゆり学徒隊の悲劇を、41曲の歌として表現した「日本のポップ・オペラ」の草分け的作品(1996年初演)。戦争の悲惨さと命の尊さを歌い上げたミュージカルとして名高い作品。
●1998年月刊「ミュージカル」年間ベストテン第7位(再演)
●2002年月刊「ミュージカル」年間ベストテン第9位(再演)
●2004年月刊「ミュージカル」年間ベストテン第8位(再演)
●2004年第6回東京芸術劇場ミュージカル月間優秀賞受賞
昭和20年(1945)年春。太平洋戦争末期の沖縄。米軍上陸が迫り、緊迫する民衆や軍人。沖縄師範学校女子部の生徒キミは、愛する沖縄が戦場になっていく悲しさを嘆く。 沖縄師範学校女子部と、沖縄県立第一高女の生徒たちは、朝礼で、教頭先生から、親元に帰るか、それとも学校に残って共に戦うかと選択を迫られる。親元に帰りたいと願うふみ、ちよ、ゆき。 学校に残って戦うべきだと主張するはる、かな、みさ。結局、軍命により、生徒たちは南風原(はえばる)陸軍病院へ篤志看護婦として従軍することが決まる。 傷ついた兵士たちの看護という尊い使命感が、親元に帰りたいという生徒たちの決心を翻させる。だが、希望に胸を弾ませて派遣された陸軍病院は、薬も包帯も底をつき、薄暗い洞窟に苦しむ重症兵士が溢れた、この世の生き地獄だった。 キミは、戦場を生き抜いてきた檜山上等兵から、恐ろしい戦争の実相を聞きショックを受ける。上原婦長に励まされ、鬼軍曹と呼ばれた滝軍曹に怒られながら、必死で兵士たちの看護のため働く学徒たち。 だが、米軍は迫り、飯上げに出かけたクラスメイトからも死者が出て、陸軍病院から脱出せざるを得なくなる。自分で歩けない患者には青酸カリ入りのミルクが飲まされ、生徒、職員、兵士、看護婦たちは、どしゃぶりの夜、陸軍病院を脱出し、 南部を目指して逃げて行くのだったが・・・・。
ミュージカル「ひめゆり」は、1994年に、私(脚本・作詞)と作曲のビリー(山口琇也)さんが、「全編歌で綴る日本のミュージカルを創作しよう」と意気投合して書いた作品です。当時、 時代を席巻していたロンドン発の全編歌で綴るミュージカル、「エビータ」「キャッツ」「レ・ミゼラブル」「ミス・サイゴン」などの大作ミュージカルに圧倒され、ミュージカルの面白さと奥深さを再発見した私は、日本のミュージカルも、 “歌入り芝居”の域にとどまっていないで、まずはフォーマット(書式)から、こうした作品群のスタイルに近づかなければ次の段階に行けないのではないかと感じ、同じ思いを抱いていたビリーさんとコンビを組んで、このミュージカルを執筆しました。 初めての挑戦は、ワクワクすると同時に、それまで台本を書いてきた経験が役に立たず、脚本家としての私の感覚を大きく変えてしまうような体験となりました。
私が初めて全編歌で綴るミュージカルを観たのは、「ジーザス・クライスト=スーパースター」だったと記憶しています。子供の頃から映画「雨に唄えば」や「サウンド・オブ・ミュージック」のようなミュージカルに親しんで来た私にとって、 ショッキングな初体験でした。よかったのか、と言われると、そうとは言えません。その時はミュージカルに対する教養もなく、感覚的にも理解出来ずに終わりました。この作品が私の“バイブル”になるまでに、長い時間がかかりました。簡単に言うと、 ミュージカルを演劇の視点から捉えるのと、コンサートのような音楽のステージの視点から捉えるのとで、大きな感覚の違いがあったのです。私が次に衝撃を覚えたのが、ミュージカル学校時代にレコードを聞いた「エビータ」です。 同じアンドリュー・ロイド=ウェバーとティム・ライスのコンビによるポップ・オペラですが、ミュージカルが、新しいステージに階段をひとつ上がったように感じました。次に私は、20代の半ばで「シェルブールの雨傘」にキャストとして出演し、 セリフが全て歌で綴られているフランス製の宝石箱のようなミュージカルに魅了されました。その時に、30代の若き音楽監督だったビリーさんと出会います。演出は、数年後に私を舞台芸術学院に招いた故・兼八善兼先生でした。時代は、 キャメロン・マッキントッシュ製作による大作のロンドン・ミュージカルが続々と大ヒットを飛ばしていた80年代半ばにさしかかっていました。その頃の私は、脚本・演出家として、何作かのミュージカルも発表していましたが、 「ドラマの中に音楽がはいっている」ミュージカルと、「音楽の中でドラマを描く」ミュージカルに彼我の差を感じ、焦れるような思いの中で過ごしていました。何人かのスタッフと新しいミュージカルを創造しようと試みましたが、 私と同じ思いの日本人に会うことは出来ませんでした。1993年春、私は専門学校舞台芸術学院ミュージカル部別科の演技講師になって、当時同学院で音楽講師だったビリーさんと再会します。ビリーさんは、すでに東宝「レ・ミゼラブル」 「ミス・サイゴン」など全編歌で綴る外国産ミュージカルに音楽監督として携わり、外国スタッフとの交流も深く、現場に精通した第一人者になっていました。その頃、私の作品を劇場でよく観てくれていた兼八善兼先生は、 久々のビリーさんとの再会の席で、私に向かって言いました。「彼は、あなたにとって役に立つ男だ。」
ビリーさんと再会した私は、本気で全編音楽で綴るミュージカルの題材をさがし始めました。やがて、映画や小説になっていて、日本人に馴染みの深い「ひめゆりの塔」に着目します。熾烈な戦争の最前線では、複雑な会話はしないでしょうが 、心の中はあらゆる叫びでいっぱいです。台詞劇より、心の表現が歌でダイレクトに伝わるミュージカルに向いている題材だとピンと来たのです。また、戦争を表現する恐ろしいリズムと、乙女の清らかなアリアが、 音楽的にも面白い対比で描けると直感しました。しばらくは頭の中で想像をめぐらしていましたが、ある夜、妻と店で食事中に、作品の全体が瞬時に頭の中で出来上がりました。「今、新しいミュージカルのアイデアが浮かんだ。」と、 私は初めてミュージカル「ひめゆり」の内容を妻に語って聞かせました。私の話を聞き終えた妻は、「今、鳥肌が立った。その作品は絶対に書くべきよ。」
1994年春、私はミュージカル「ひめゆり」の執筆に取りかかりました。私は全ての台本(歌詞)を一度に作曲家に渡すことはせず、数曲ずつ渡して、出来上がって来たメロディーを使って次のシーンを書き進めるようにしました。 全編歌のミュージカルで大切な、効果的なメロディーの繰り返しを見失いたくなかったからです。最初の5曲ほどで、Am9を使った緊迫した戦争のリズム、Cmajorの明るく清純な学徒の主題旋律、 卒業式で歌われる唱歌のような大きさを伴った友情の歌など、キーとなるメロディーが複数誕生しました。そこまでは作詞先行でしたが、そこから先は曲先行で歌詞をつくる曲も出て来ます。絨毯を編むように、 縦糸(作詞)と横糸(作曲)で交互に織り上げて行き、作詞と作曲が同時に作業を終了するような作業手順で進みました。それまでに書いた、芝居の間に一曲ずつ歌がはいるようなミュージカル・プレイでは、 脚本を仕上げてから作曲家に渡しても支障はなかったのですが、全編歌のミュージカルでは駄目でした。こうした手法が、その後、「ルルドの奇跡」など歌で綴るミュージカルを書く時の、私とビリーさんのやり方になりました。 外国スタッフとの交流も深いビリーさんは、事あるごとに私に有益な助言をくれました。たとえ同じメロディーを繰り返すとしても、ドラマは巻き物のように進んで、一回たりとも同じ場面はないのだから、歌詞の字数は同じでない方がいい、など、 私の迷いを吹き飛ばすような言葉をかけてくれました。「キャッツ」や「レ・ミゼラブル」のようなミュージカルを書く時に、セリフでドラマを進めることをなりわいとする脚本家は役に立ちません。ソングライターが必要です。しかし、 そのソングライターには、完璧なドラマやショーを書く力量が求められます。難しさの理由は、前述したように私自身の脚本に対する感覚を変えることでした。「使う脳の場所が違うんだな。」と気づいたのです。私は、この作品の執筆を通じて、 大学を修了したような気分になったほど、ミュージカルに関して多くのことを学びました。
「ひめゆり」の執筆で、私が脚本を書く時のテーマにしたことは、沖縄戦では、愛する我が子や家族にまで手をかけなければならなかった人がいるという事実でした。本当に辛い事実ですが、自分はそんなことはしないと誰が言い切れるでしょうか。 そうして生き残ってしまった人は、「なぜ自分は、あんなことをしてしまったのか。」と、血の涙を流しながら、一生問い続けることでしょう。戦争の現場には、「なぜなんだ!!」と叫びたくなるような不条理が満ちています。私は、 この作品に登場する人物たちは、皆、言っていることを全う出来ないように心がけました。戦場のカオスの中では、もはや人間として筋を通すことは出来ません。二度と戦争を起こしてはいけない理由の一つがここにあると、私は思っています。
昭和20年夏、すべての日本人が抱いたはずである「戦争は、二度と繰り返してはならない」「命とは、なんとかけがえのないものであるか」という痛切な後悔の念を、今の時代に、そして後世に伝えたいと願い、この作品を創作しました。
桐朋学園大学音楽学部卒業後、オペラ、ミュージカルの舞台に数多く出演。
また、スタジオプレイヤー(ベース、キーボード、ヴォーカル)、コンサートのバックミュージシャン、アレンジャー、指揮等々の経験を積んだ後、スタッフ活動に加わり、ミュージカルの分野では「ミス・サイゴン」「レ・ミゼラブル」「回転木馬」「42nd ストリート」「ラ・マンチャの男」「ベガーズ・オペラ」「ブラッド・ブラザーズ」「GOLD~カミーユとロダン~」「ダディ・ロング・レッグズ」等の音楽監督、並びにヴォーカルトレーナーを務め、コンサート、リサイタルの構成・プロデュースなども数多く手がけている。
また、タレント、歌手の方々のヴォーカル指導にも力を注ぎ、あらゆるジャンルに対応出来る声作りを目指している。 「ひめゆり」「アイ・ハヴ・ア・ドリーム」「ルルドの奇跡」「赤毛のアン」「ママ・ラヴズ・マンボ」「スウィング・ボーイズ」など、オリジナル・ミュージカルの作曲・編曲家としても数多くの作品に参加し、「山彦ものがたり」では文化庁主催海外公演(中国・ベトナム・韓国)を行い、英語台本でのニューヨーク公演は反響を呼んだ。
「ミュージカル座」の作曲・音楽監督として、オリジナル・ミュージカルの新作発表を目標に創作活動を続けている。その他、NHKをはじめ多くのTV番組の音楽スタッフとして活動するかたわら、若い才能の育成にも力を注いでいる。
2006年には舞台の音楽活動に対し菊田一夫賞(特別賞)、2007年には読売演劇大賞優秀スタッフ賞、2010年には日本演劇興行協会賞を授与された。ミュージックオフィスALBION代表。